Thurs 17.08.17
ハレ
いつも起き抜けに見るツイッタを見ず、ストレッチしてから、りんご、バナナ、プラム、ケール、レモンのスムージー作る。
今日はできるだけネットから離れることを意識しようと思い、どんな禁断症状が出るのか観察中。
壮大なプロジェクトである紙ものの片付け続行、全体の1/4終了。
散歩。
銀行で家賃2か月分おろす。
大金抱えたままカフェへ。
わたしはいろいろなものを持っているけど、持っていないものもある。
持っていないがゆえに、ときどき持っている人に「嫉妬」する、「妬む」。
そういう心の活動はわりと無駄であるということも知っているんだけど、それでもふいに発動する。
発動するとすぐに囚われて、動けなくなる。
それで今回いろいろ考えてみたんだけど、「妬む」みたいなことは自分の欲の現れで、自分で自分に足りない何かを不満に思っていることで、理想と現実の間のギャップに苦しむということかな、と。
それはその点に関しては自分はハッピーではないということになるので、では、なにが一体不幸(不満足)なのか、思いつく限りを書き出してみた。
11個の不幸があった。
それで、その不幸をどうしたら満足という幸せに変えられるのかと考えたんだけど、それは案外途方も無いことで、なかにはひとりではできないことまである。
うーーーーーん、と唸っていたら、ぱっと閃いた。
「あきらめるんだ!」
ネガティヴな解決策のようで、実はポジティヴな意識がないと本当にはあきらめきれないと思う。
そこには自己肯定感が必要だし、「あきらめた」ら他者との間に境界線もひける。
ネガティヴにあきらめる場合はいつまでも引きずるだろう。
ツイッタでクリシュナムルティという人のことばを知ったけど
「私たちはこうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです」
とかね。
そうかもなー。
おまけに「あきらめる」と決めたら、どうしてもあきらめたくないことも見つかった。
とてもシンプルで、あきらめることはあきらめる、でもあきらめたくないことはあきらめない。
初めの思考のきっかけになった「妬み」は当然あきらめるに値するある意味どーでもいいことで、つまり、あきらめることで欲望の断捨離ができたということだ。
よかったー。
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あと負け惜しみのようでもあるけど真実でもある、わたしがそれを持っていない代わりに、だからこそ得ているものってあると思う。
欲しいものが手に入ると消えてしまうもの。
でも、消えてしまってもまた違うステージに進むので、とりあえず、自分を信じていけば生きやすくなると思う。